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要旨:
企業内には社員間の処遇公平性を維持するための様々な取扱いやルールが存在する。そのうち海外勤務者の取扱い原則の一つに「二重給付の排除の原則」がある。だが、今もなお、手付かずとなっている二重給付として「海外勤務経験者の海外年金」がある。本来、戻し入れの対象であるから、これを掘り起こし可能な「海外年金埋蔵金」と位置づけた。
政府が社会保障協定を次々と締結・発効し、海外年金の受給資格者またはその予備軍が爆発的に増加している。これまで企業人事によるおざなりな社内規定運用の結果、一部の海外勤務経験者が自己負担を伴わずに海外年金の受給資格を“棚ぼた”として得ているにも拘わらず、二重受給の是正対策は全くと言っていいほど実行されていない。
二重給付の垂れ流しがもたらす経営上の問題は大きく2つある。1つ目は「処遇格差問題」である。一部の海外勤務経験者のみ公的な老後所得保障が上積みされる結果となり、同じ企業で働く社員間で著しい処遇格差が発生している。2つ目は「利益逸失問題」である。戻し入れが実行されていれば多額のコスト回収が実現可能であるにも拘わらず、みすみすその機会を逸しており、企業損益に与える負の影響は甚大である。このように人事部門の責任は極めて重いと言わざるを得ないが、企業経営者はその事実を未だ把握していないものと推察される。
今後、協定締結国が増え、海外年金がもらえる海外勤務経験者が増え続ける中、理由のない”棚ぼた”を認めないという原則、社会保障の受給資格を国内勤務者と同一に維持して不公平を排除するという原則は、聖域を設けることなく今後も断固として貫くべきであり、決して、海外勤務経験者の既得権として認めてはならない。
一方、ここ10年で企業を取り巻く外部環境は激変し、収益押し下げ圧力は更に増しており、経営改善は急務である。年金受給権の帰属や戻入実務の諸問題など是正対策の構築には様々な課題があるが、今こそトップダウンによる早急な是正断行が求められる。経営改善策の一つとして、正当な理由に基づく海外勤務経験者の年金二重受給是正対策を加えるべきである。企業内に眠っている「海外年金埋蔵金」を掘り起こし、社員間の納得が得られる処遇公平性の確保と海外勤務者派遣コストの回収実現を大いに期待したい。
2012年1月 社会保険労務士 沓掛 省三
政府の財政改革議論の際によく出てきた「埋蔵金」。企業経営とは全く無関係のようなキーワードだが、「海外進出企業の中に莫大な埋蔵金が眠っている。」と聞いて無視できる企業経営者はいるだろうか。そして「この埋蔵金の掘り起こしから生まれる効果と利益は企業経営上決して無視できるような存在ではない。」ともなれば、なおさらのことではないだろうか。
埋蔵金の正体、それは昨今の社会保障協定の発効によって海外勤務経験者に突如もたらされた海外の公的年金受給資格であり、将来の給付が確約されている公的年金給付である。筆者はこれを「海外年金埋蔵金」と呼んでいる。これがなぜ埋蔵金なのか、企業経営者はなぜこれに着目しなければならないのか、について順次説明したい。
2000年以降、日本政府はドイツを皮切りにアメリカなど12カ国との間で社会保険料の二重払いと掛け捨てを防ぐ社会保障協定を締結・発効させてきた(表1)。
表1 社会保障協定の締結状況(2012年3月現在) | |
発行年 | 国名 *1 年金期間通算なし |
2000年 | ドイツ |
2001年 | イギリス*1 |
2005年 | 韓国*1、アメリカ |
2007年 | ベルギー、フランス |
2008年 | カナダ |
2009年 | オーストラリア、オランダ、チェコ |
2010年 | スペイン、アイルランド |
2012年 | ブラジル、スイス |
発効準備中 | イタリア |
交渉中 | ハンガリー、ルクセンブルク、インド、スウェーデン、中国 |
予備協議中 | スロバキア、オーストリア、フィリピン、トルコ |
(出所)厚生労働省資料を参考に筆者作成 |
海外勤務を経験した社員が海外年金をいつから、どのくらい受給することができるのか、について大まかにでも把握している企業経営者やCHO(最高人事責任者)そして労働組合幹部は一体どれだけいるだろうか。「海外年金の給付額は高が知れているだろう、取るに足らない金額だろう」という程度の認識ならば、それは即刻改めるべきである。
表2は、アメリカに5年間勤務した場合の企業が肩代わりした社会保障税と年金給付額を試算したものである。自社のそれに当てはめていただくと、これまでの企業負担は決して小さくなく、そのうえ二重給付として支給される年金給付は決して無視できる金額ではないことが理解いただけたはずだ。
表2 アメリカに5年間勤務した場合の社会保障税納付額と年金給付額の試算
企業が肩代わり した社会保障税 |
年金月額 (66歳~) |
年金年額 | 年金累計額 (13.64年) |
|
独身 | $25,817 | $329 | $3,948 | $53,850 |
2,065,360円 | 26,320円 | 315,840円 | 4,308,000円 | |
有配偶者 | $25,817 | $493 | $5,916 | $80,694 |
2,065,360円 | 39,440円 | 473,280円 | 6,455,520円 |
この問題への取り組みには、海外勤務者の人事管理の理解、とりわけ次に挙げる海外勤務者の取扱いの原則の理解が不可欠となる。
これまで、このような原則を貫こうとしてきた場合、各社は海外勤務規定中に次のような内容の条文を盛り込んでいたはずである。
1.海外勤務者の社員資格その他国内人事制度上の地位は、海外勤務中も国内において勤務している者と同様に取扱う。
2.海外勤務者の厚生年金保険、健康保険、雇用保険は国内勤務者と同一条件により、引き続き加入させる。
3.任地において強制的に加入を求められる社会保険制度がある場合は、保険料の全額を会社が負担する。ただし、これら現地社会保険から受ける給付金は、全額を会社に戻入しなければならない。
3の条文は、海外勤務者は一時的滞在者であるため、とりわけ海外年金については個人が保険料を支払っても、保険料に見合う恩恵を受けることができないため、企業が保険料を全額負担することとし、理由のない”棚ぼた”を許さないために、万一、何らかの給付があったとしても、全額会社に戻し入れをしなければならないとするものである。
実は社会保障協定が締結される前から海外勤務経験者が海外年金を受給するケースはあった。例えばアメリカでは保険料納付済期間が10年を超えると老齢年金がもらえていた。
この”棚ぼた”の会社への戻し入れを規定では定めていても、実際には該当者が極めて少なかったことや給付自体が退職後であることなどから、該当者が発生しても人事部門はこれを例外として無視したり、長期海外勤務に対する慰労給付と位置づけてみたりして問題に蓋をし、社内規定に則った戻し入れ措置をおざなりにしてきた。そのようなところに協定が次々と発効され、海外年金の受給資格者またはその予備軍が爆発的に増加し、人事部門はまったく手に負えない状態に陥り、どのように対応すればよいかわからないのが実情である。
二重給付の垂れ流しがもたらす経営上の問題は大きく2つある。
1つ目は「処遇格差問題」である。一部の海外勤務経験者のみ自己負担なしで老後所得保障が上積みされる結果となり、同じ企業で働く社員間で著しい処遇格差が発生している。
2つ目は「利益逸失問題」である。本来、戻し入れが実行されていれば多額の人件費回収が実現可能であるにも拘わらず、みすみすその機会を逸しており、企業損益に与える負の影響は甚大である。このように年金二重受給の放置が及ぼす経営への弊害はあまりにも大きく、人事部門の責任は極めて重いと言わざるを得ない。
従来あまり発生することのなかった長期的なタイムラグのある長期的な二重給付という海外年金の特異性が是正の実行を遅らせてしまった原因の一つでもあるだろう。だが、是正対策は早急に講じなければならない。
海外年金の受給資格者が退職して企業との雇用関係が解消されると、戻し入れについて協議したり、何らかの合意を交わしたりすることは難しくなる。さらに、例えば一人100万円取り戻せるとして対象者が100人いれば1億円もの金額になる。みすみす特別利益を得る機会がありながら、これを逃してしまうことは経営的にも許されない。
また、対策が遅れると、国内勤務者との間ばかりでなく、海外勤務経験者との間でも取扱いの不公平が拡大して、問題が更に複雑化する。
しかしながら、対策を講じて実行に移すことはそれほど簡単なことではない。越えなければならないハードルがいくつか存在するからだ。
まず、年金保険料は個人負担分も含めその全額を企業が支払っていても、年金受給権は個人に帰属するという問題がある。そうであるならば、受給資格者に年金を確実に受給させたうえで戻し入れをさせる必要があり、本人任せではなく企業主導でその体制を整備しなければならないし、海外年金の受給資格と年金の受給予定額を当局に確認することや裁定請求手続きは、言語の問題や高度な専門知識が必要であり、自社で独自におこなうことはなかなか難しいだろう。さらに、戻し入れができても、保険料の支払者が現地法人である場合、現地法人との関係をどう調整するかという問題もある。
それでも社内規定に「現地社会保険から受ける給付金(海外年金)は会社に戻し入れる」との一文を入れているのであればなおさらのこと、海外年金にまつわる”棚ぼた”の解消という課題に早急にかつ積極的に取り組む必要がある。勿論、社内規定に上記一文が規定されていないのであれば、直ちに追加すべきであることは言うまでもないだろう。
年金支給開始年齢の更なる引き上げなど年金改革議論もあるなか、リタイア後の所得への関心と不安は一段と高まっている。海外勤務経験者の海外年金受給は、同じ企業で働く社員間で、勤務した場所が国内か海外か、さらに社会保障協定の締結国か否かの違いで公的年金の受給資格に格差が生じ、それが将来の老後所得格差へとつながる、という著しく公平性を欠く処遇格差を生み、「海外勤務者は退職後も厚遇されている」との不満を招いている。
今後、中国やインドなどをはじめ、協定を締結する国が増え、海外年金がもらえる海外勤務経験者が増え続ける中、理由のない”棚ぼた”を認めないという原則、社会保障の受給資格を国内勤務者と同一に維持して不公平を排除するという原則は、聖域を設けることなく今後も断固として貫くべきであり、決して、海外勤務経験者の既得権として認めてはならない。
その一方、足元で1ドル=75円台と過去最高値を付けた超円高環境をはじめ、ここ10年で企業を取り巻く外部環境は激変し、収益押し下げ圧力は更に増している。今こそ経営改善策の選択肢の一つとして、正当な理由に基づく海外勤務経験者の年金二重受給是正対策を加えるべきである。
是正の実行には、トップダウンによる断行が求められる。なぜならば、これまで海外年金にまつわる二重給付の是正処置について弱腰であった人事部門が憎まれ役となって是正を実行に移せるのか、という疑念があるからだ。
それに加え、旗振り役であるCHOや人事部長などの人事部門責任者自身が是正対象となる海外勤務経験者であることも十分に想定され、この問題に蓋をするどころか闇に葬ってしまう可能性も否定できない。
実効性の高い是正対策構築の近道は、「是正対象者の区別」にあると考えている。是正対策を検討する際、どうしても既に海外年金を受給しているリタイア層(退職者)に目が向きがちだが、それよりもむしろ受給に至っていない現役層(在職者)に焦点を当てて是正対策の構築を急ぐべきだ。対象者を区別することで関連する法的な諸問題も切り分けて検討することができ、より現実的な是正対策を構築することができるだろう。
欧米市場への事業展開が早かった金融、商社、電機、自動車などの業界を中心に日本の大手企業はこの問題に対し、いかにして年金あるいはその相当額を戻し入れさせるべきかについて本腰を入れて対応を検討すべきであり、日本人海外勤務者の最大の派遣国である中国との協定締結交渉に入ったこの機会を逃すべきではない。
是正の実行により社員間の納得が得られる処遇の公平性が確保されるばかりか、これまで皆無だった海外勤務者派遣コストの回収が実現できる可能性があるのだ。
「海外年金埋蔵金」は必ず掘り起こせる。筆者はそう信じて疑わない。
以上
社会保険労務士 沓掛省三